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大本山東福寺塔頭伝統龍眠庵

椿の古木 有楽斎椿の庭

龍眠庵は紅葉で有名な臨済宗の大本山である東福寺塔頭25ヶ寺の中の一つです。拝観の受付は行っておりませんが、春や秋には境内の外まで広がる有楽斎椿と呼ばれる椿の古木や紅葉が道行く人を楽しませています。(拝観は致しておりません)

有楽斎椿

龍眠庵 創建

龍眠庵は、東福寺37世の檀渓心凉(だんけいしんりょう:1302~74)が東福寺住職を退任した後の退居所として開創した塔頭です。『東福寺諸塔頭并十刹諸山略伝』によれば「龍眠庵 文和年中建立」とあり、南北朝時代の文和年間(1352~56)頃に創建されたことが分かります。檀渓和尚は、因幡国(現在の鳥取県)に生まれ、『元亨釈書』の作者として著名な虎関師錬(東福寺15世)の弟子となってその法を継いだ後、伊勢国(三重県)に正法寺を開き、美濃(岐阜県)の如意輪寺に住した後(ともに廃寺)東福寺に帰り昇住して東福寺37世の住持を務めました。虎関師錬の同門の法弟には、万寿寺32世竜泉冷淬や東福寺43世性海霊見がいます。檀渓和尚は竜泉に勧めで師の虎関の言行録『海蔵和尚紀年録』を編纂しました。その草稿本は重要文化財に指定され現在も霊源院に伝来しています。応安7年(1376)8月8日に伊勢の正法寺において示寂し、龍眠庵を没後の塔所としました。

龍眠庵 沿革

応安年中、檀渓心凉が退去所として東福寺内に龍眠庵を開いた後の同塔頭の沿革については必ずしも詳らかではありません。檀渓の法孫である徳中光佾は、龍眠庵塔主として室町時代の公家の著名な日記である『建内記』の著者 万里小路時房の詩作の師匠として交流が知られています。(建内記 文安1年5月8日条)

江戸初期には、徳川家康による豊臣方に組した安国寺恵瓊に対するお咎めの影響を避けるため、恵瓊ゆかりの退耕庵と塔頭号(寺の名前)を変える措置がとられたと伝えられています。江戸天保期における東福寺塔頭の規模を記した『天保度 諸塔頭絵図間数書』(天保14年)によれば、退耕庵(龍眠庵)は方丈・庫裏・表門・中門・土蔵からなり、敷地568坪、建築面積79.5坪であったことがわかります。(日種真子誌)

東福寺龍眠庵

龍眠庵の開祖 檀渓心凉

檀渓和尚の頂相(肖像画)は東福寺と龍眠庵に各一幅伝来しています。東福寺蔵(写真)は門弟の求めに応じて生前に自ら着賛した肖像画であるのに対し、龍眠庵蔵のものは寂後に法弟の性海霊見が賛を加えた遺像です。また師の虎関から檀渓み贈られた道号頌「檀渓」が寺外に伝わっています。

京都藤井永観文庫蔵

臨済宗の僧・安国寺恵瓊は、安土桃山時代1591年に、龍眠庵の報道が再建し、1596年には東福寺本坊庫裏も再見され、1597年に通天橋も架け替えられました。(ブログ「京都風光」参照)

檀渓和尚の頂相(肖像画)

大本山東福寺 三聖門派

寛喜(かんぎ)3年生まれ。臨済宗。京都東福寺開山の聖一国師の法を継いで三聖寺(現廃寺)を開き、東福寺2世になった東山湛照の流れを三聖門派といい、現在でも東福寺内の主要四門派の一角を占めています。その一番弟子が虎関師錬であり、檀渓和尚はその孫弟子にあたります。

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